当事者研究ブログ「大人の頭蓋骨縫合早期癒合症」

頭蓋骨縫合早期癒合症(軽度三角頭蓋)と高次脳機能障害(容量性注意障害)に関する当事者研究の記録です。言語性ワーキングメモリと日本語(右側主要部の規則)の関係、デフォルトモードネットワークの機能について研究しています。目的①頭蓋骨縫合早期癒合症を成人症例、生活史を記事としてまとめること。目的②特異的言語発達障害の当事者研究をもとに、日本語が日本人の思考に与える影響(サピアウォーフ仮説)を考察すること。

公的自己意識が過度に高いゆえに自己肯定感が低くなり「べき思考」に陥る日本人。その原因は日本語のSOV語順である。

はじめに、日本人は国民レベルで「自意識過剰」、公的自己意識が過度に高い状態を常に続けており、さまざまな形(個人的および社会的に)で問題が発生しているといえます。

公的自己意識が過度に高い状態であることによって起きる弊害を箇条書きすると以下のようになります。

  • 自己肯定感が低い
  • パーソナルスペースの拡大
  • 同調圧力、忖度に対する過敏

日本人が国民レベルで脅迫的となっている「自意識過剰」の環境的要因、すなわちそうせざるを得ない状況にさせている原因についても言及します。

日本人の公的自己意識の高さは、厳格な礼儀作法(マナー)や敬語の特殊性にあらわれています。まず、武道の礼儀作法について、海外のスポーツでも相手を讃えるマナーがありますが、剣道でハグや握手をする人はいないでしょう(小手はめてるからではなく、柔道も同じ)。正座とお辞儀のように、相手と接触することはありません。普段の生活でも日本人の文化では頬にキスやハグをする家庭はめったにありません(やるのは西欧諸国くらいしかないもしれませんが)。

もう一つ、公的自己意識の高さの現れとして挙げた、日本語の敬語は特殊です。単に丁寧語、尊敬語があるだけでなく、話す相手と叙述内容の動作の主体との関連性から変化する謙譲語の存在は、日本人が自身の社会的立場に配慮する民族であるといえる証拠といえるでしょう。

ここまで説明した要素は、日本人の公的自己意識が高いことを示すものでした。しかし実情は、公的自己意識が高すぎる、いわゆる「自意識過剰」が日本人が抱えている問題です。あるいは公的自己意識の高い状態を常に続けなければならない状況に置かれているともいえるでしょう。言い換えれば自我が常に不安定、南博が「日本的自我」の意味として導き出した「自我の不確実性」ともいえます。

世界中の民族の中で、公的自己意識が過度に高いといえる根拠があります。それは若年層の自殺者の多さです。日本は先進国の中で若年層の自殺者が多い若年層には、思春期や青年期、すなわち自我が発展途上の段階の年齢層が含まれています。

www.sankei.com

なかには「小学生が自殺した」という事件の報道も日本では聞かれます。小学校の高学年であれば、教室という集団社会に身を置いている期間が長く経過しているため、公的自己意識の存在に気付いている人数も少なくないはずです。自殺の原因はイジメなど様々ありますが、精神的に元気な状態で企図することはなく、小児特有の抑うつ状態に陥っているはずです。

背景には諸々の不安障害との親和性が指摘される気分変調症があるかもしれません。しかし、先天性の精神疾患罹患率は世界共通であるはずです。このことは先進国で日本の若年層自殺者数数が突出している現象の原因とは言えません。

最も理想的な自我の状態とは、私的自己意識と公的自己意識(バッティングしやすい関係)のアウフヘーベンを実行し、内向性を含める理性、すなわち内省的思考及び社交性を実践できる状態でしょう。これに対して、日本人が公的自己意識の高い状態を常に続けなければならないことは、私的自己意識が低下していることでもあります。つまり自分の欲求、「心の声」に傾聴しない状態です。

公的自己意識が過度に高くなれば、自身が抱く本来の欲求に反する意識を尊重するという、いわゆる「べき思考」に陥ります。このストレッサーにより不安が生まれ、自己肯定感が低くなる、という理屈です。

自己肯定感が低くなるメカニズムについて、ロジャーズの概念で説明すると、「自己概念と経験の不一致」に起因する不安といえます。経験とは本当の自分自身のこと、これに対する自己概念とは「主観で規定した自分の本来あるべき姿」となるでしょう。この自己概念を規定する際の基準となる主観に、公的自己意識が強くかかわっていることは、「べき思考」の共通からもいえます。

社会生活を送るうえで、公的自己意識を高くすることは必要不可欠といえます。しかし、確立された自我があることが前提です。南博氏がいう「自我の不確実性」、つまり日本人の自我が不安定な状態で続き、安定させるための時間がない、それどころか安定した自我を獲得したことがない人だって多いはずです。

思春期といえば、年齢的にも自我を獲得できていない時期ですし、これに大きなストレスが加われば公的自己意識の過剰によるストレスで心身が疲弊し、自己肯定感の低下がとどまることなく続き、やがて死の欲動デストルドー)の発生、衝動的自殺に至ってしまいます。遺書(遺言書ではありません)を残さない若年層の自殺は、こういった理屈があるでしょう。

公的自己意識が過度に高い日本人の状態について、これを日本人は好きで続けているわけではなく、自我を安定させられないことの外的要因が存在するでしょう。その外的要因について、われわれ日本人が普段使用している日本語の語順であると私は考えています。より具体的に言えば、「右側主要部の規則」を徹底的に採用する日本語を使用することが、日本人の思考に対して公的自己意識を一辺倒に高く引き上げるという影響を与えている、ということになります。

以下のリンク先には、ここまでの内容をより詳しく、「日本人の国民性」という観点で論じた記事があります。表現の多少の違いはありますが、お伝えしたい内容は同じです。

atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp

 

日本人は国民レベルで自我が不安定ゆえに公的自己意識が過度に高い(南博: 「日本的自我」、自我の不確実性)

さっき、日本人の国民性について自我の不確実性を提言した社会心理学者がいたことを知りました。南博氏です。そしてその内容を提言した書籍が、「日本的自我」です。これは私にとって興味深いです。

日本的自我 (岩波新書 黄版 241)

日本的自我 (岩波新書 黄版 241)

  • 作者:南 博
  • 発売日: 1983/09/20
  • メディア: 新書
 

 

初めて心理学で「自我」という表現が使われ始めたのは、精神分析学でのイド、スーパーエゴのバランスを取るもののとしての語用でしょう。

自我という言葉は広く使われていて、意味もそれなりに広いように感じます。この言葉を学術的に使うことは難しいように感じます。そのため私は別の表現を用いています。自我の言い換え表現を挙げると、通常の心理学では「自己意識」や「自己同一性(アイデンティティ)」があります。認知心理学は特殊で、こちらでは物理的な使われ方をされますので、少し意味が異なりますが、ワーキングメモリと関連づけながら「意識」や「注意の焦点」が用いられます。あとはロジャーズによる「経験」という表現もあります。

南博は、「日本的自我」が示す内容をひとことで「自我の不確実性」といっています。最も身近な表現を言うと「アイデンティティ=クライシス」や「自我同一性拡散」でしょう。

理想的な自我の状態は、確立された自我によって公的自己意識と私的自己意識にバランスがとられている状態です。つまり私的自己意識を軽んじることなく、自分の欲求にもある程度注意を向けられている状態です。これに対して、「日本的自我」とは、公的自己意識が過度に高くなっており、自我が不安定な状態が続いている日本人の状態を示している表現であるといえます。言い換えると、思春期に限らず、国民レベルで大人も含めて「自意識過剰」ということです。

公的自己意識とは自身の社会的立場を基準にふるまう思考に該当します。問題なのはこれが過度に高い状態、すなわち公的自己意識がストレッサーとなり、自身の立場や社会的評価を気にしている状態です。この状態でいることで発生する問題の具体例を挙げると、他人からの視線が気になるあがり症や、同調圧力への過敏性でしょう。

日本人の国民性(国民レベルの性格)の大元として「公的自己意識が過度に高い」といえる根拠として、厳格な礼儀作法(マナー)や複雑な敬語が挙げられます。他国では相手に対して握手やハグも挨拶として用いられています。これに対して日本は異なります。日本では相手に対して3種類の敬語やお辞儀で済ませます。一方でキスや敬意は示すけれども親愛の意は示さず、といったところでしょうか。むしろ日本人の礼儀作法は、警戒感の現れだと思います。

何に対する警戒感かというと、例えばとりあえず敬語を使っておけば、特にモンスタークレーマーや悪性自己愛者(DQN)から因縁をつけられたり、高齢者から「失礼だ」と怒られるというストレッサーの発生を回避できますし、なにより自分の社会的評価を落とさないでいられます。ただ、それだけではないようで、パーソナルスペースの広さが関わっているように感じます。

日本人はパーソナルスペースが広いといわれています。すなわち、相手とのコミュニケーションをする際に、パーソナルスペースを急に詰められるかもしれないことに対して、警戒感を抱く場合が多いと思います。それ自体は全く問題ないのですが、特に西欧諸国とは、コミュニケーションの質が全く違うことは興味深いです。

日本にかかわらず、人間は思春期から社会性を学び、公的自己意識の存在を知り、自我を形成します。自我が確立されていないうちは公的自己意識が高くなり、私的自己意識をおろそかにしてしまいがちです。思春期の青年が「自意識過剰」といわれるのはこのことです。

南博が言っている日本人の国民レベルでの「自我の不確実性」とは、自我が形成されていない、という意味ではなさそうです。形成されているものの、公的自己意識が強い状態が続いており、なかなかバランスの取れた「自我」に至らないということでしょう。私の持論ですが、たとえ公的自己意識と私的自己意識のバランスが取れたとしても、すぐに公的自己意識に比重が置かれ、自我が不確実になってしまう、これが日本人が抱えている根本的な問題でしょう。そして、同調圧力や忖度に過敏性、他人からの評価が気になって不安になるという問題が発生すると私は考えています。

では、日本人がすぐに自我が不安定となり、公的自己意識が過度に高くなり、それに起因するストレスを抱え込むようになってしまう根本原因は何でしょうか。この問題の答えは提示されていないようです。少なくとも公式の見解は出てくることはないでしょう。私見にになりますが、当ブログでは、言語的相対論を用いて、日本語の語順規則ではないかと私は考えています。言い換えると、SOV型言語である日本語を使って生活していることが、日本人の自我の安定を脅かしているということです。

詳細は下のリンク先の記事で説明しています。

atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp

自己紹介・研究活動・目標

私は、軽度の頭蓋骨縫合早期癒合症の「成人当事者」です。そしてこれに起因する高次脳機能障害である容量性注意障害を患っています。

通常の早期癒合症は幼児期のうちに症状が顕在化し、治療される病気であることから、「小児慢性特定疾病」として、医学によって認知されています。一方「早期癒合症の成人患者」は問題が存在するはずですが問題提起されていないため、2020年時点では医学において想定されていません。容量性注意障害も精神医学において高次脳機能障害概念として存在してはいるものの、詳細に考証する研究が存在していないことから、その実態は未解明であるといえます。

早期癒合症によって、先述した容量性注意障害のほかにも身体症状が併発しています。これら全ての症状について、NIRSやWAIS™-IIIなどの数々の検査結果や成育歴から、早期癒合症由来の後天的な症状であると私は推測しています。私が抱えている症状と早期癒合症の因果関係については、以下のリンク先で説明しています。

atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp

容量性注意障害に該当する神経症状については、早期癒合症の発覚以前に昭和大学の加藤進昌先生から、「特定不能の広汎性発達障害」(精神症状の原因不明の意味を持つ)という診断が下りています。この病名は不特定のもので、実体を持ちません。

現在、頭蓋骨縫合早期癒合症の研究は脳神経外科学の範疇で行われていますが、併発する精神症状の病理についての研究は行われておらず、治療をめぐる議論も停滞しています(その原因は精神医学の性質上の問題点にあります)。この状況を打開するべく、当方の専門分野である認知心理学神経心理学、音声言語医学などを用いたアプローチによって、その全容を解明するために研究活動をしています。
このブログの存在意義ともいえる最終的な「目標地点」は、頭蓋骨縫合早期癒合症の研究のなかで、脳神経外科学と心理学、及び言語学を用いた学際的研究を実現することです。質問等がございましたら、記事のコメント、twitterなどで問い合わせをください。最後に私の経歴を載せておきます。詐称がないことはここに宣言します。

大津諒太朗:早稲田大学法学部卒業(2016年)、日本ワーキングメモリ学会に入会し、ご厚意で学会大会で当事者研究を発表する機会をいただきました。