日本人の国民性と言語相対性仮説(1):自意識(公的自己意識)の過剰で礼儀正しく、空気を読みすぎて生きづらい
キーワード:国民性、礼儀正しさ、上下関係、パーソナルスペース、不安、「自意識過剰」、公的自己意識、べき思考、べき論、同調圧力、忖度、文化依存症候群
- 日本は若者の自殺者数が多い先進国であるという逆説
- 日本人の国民性①:他人の目が気になるから礼儀正しい
- 日本人の国民性②:公的自己意識の過剰が作り出す「べき思考」
- 日本人が生きづらいと感じる理由は「べき論への弱さ」
- まとめ:日本人の文化依存症候群は公的自己意識がストレスになったもの
日本は若者の自殺者数が多い先進国であるという逆説
今回の記事では、日本人の国民性を作り出している「公的自己意識が過度に高い」の詳細について説明するとともに、その思考を作り出している根本原因が日本語の語順かもしれないという提言を少しだけ説明します。
「日本は生きづらい国」と考える人は多いようです。検索エンジンに入力してわかりました。「生きづらさ」を感じる状態は、ストレスを感じ、精神的に疲弊している状態に言い換えられます。そして、日本は自殺が多い国でもあります。
白書では自殺者の人数が「減少している」みたいですが、数字の減少にはトリックがあるようです。
遺書のない突発的な自殺は、変死体扱いになっているとも考えられる。確かに司法解剖数も右肩上がりで、10年間で5524体→1万819体と約2倍増(新法解剖含む)。自殺者は7年連続減どころか、むしろ増えている可能性だってあるのだ。*1
そして、日本での自殺において留意するべき点は若者の突発的な自殺が多いことです。
日本はGDPが高いだけでなく、町全体も治安が良く、衛生の清潔度は高い。そしてエンタメも充実しています。海外に行ったことのある人ならわかるはずですが、少なくとも安全欲求を満たすという点で世界一恵まれた環境であることは間違いありません。であるにも関わらず、多感な若者に限らず日本で自殺者が多いという、逆説的な現象が起きていることについて、その原因としてまず発展途上国では想定できない、先進国にいる人間特有の考え方と関係していると考えられます。
しかし、同じ先進国でもアメリカや中国、スペイン(バスクを除く)、フランスでは「自殺者が多い」という話は挙がってきません。つまり、こういった国にはない事情が日本には存在しており、それを日本人が抱える羽目になっていることが言えます。
日本とアメリカ、中国などの国との違いについて論じるうえで有用なキーワードが「文化依存症候群」という概念です。日本人の文化依存症候群について説明するために、表面化している国民性について列挙します。
日本人の国民性①:他人の目が気になるから礼儀正しい
日本語だけが謙譲語を持つ
「日本人が礼儀正しい」ということは、海外でも評価されています。普段のマナーもそうですが、「礼儀正しさ」の筆頭として、私は敬語表現を挙げます。日本では3種類の敬語表現が存在します。これのすごいところとは「私の母が申し上げていました」というように、叙述の中で登場する第三者の対する表現も、話す相手によって変化することです。すなわち謙譲語の存在です。日本人が意識している他者との関係性は、話している相手と自分の関係性だけではないことがわかります。
もう一つ重要なのが、謙譲語は日本語特有の表現であるということです。丁寧語や尊敬語のように、相手への敬意のレベルが変動する敬語は英語などでも認められますが、謙譲語のように自分自身の立場をへりくだらせる敬語表現は、英語にはありません。ほかの言語にもないそうです。
少し脱線しますが、文末に位置する述語に、敬語というモダリティが付与されることについては、伝達すべき内容ではない、あるいはその優先度が低いためでしょう。このことは、日本人が命題内容を優先的に表出しなければならないという強迫観念を持っていることの現れであるといえます。そして、命題内容を先に表出し、モダリティを後回しにすることを美徳であると日本人が考えていると私は推察します。詳細は後述します。
atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp
それでも敬語を扱う動機については、社会における自分自身に対する評価を落とさないように、特に先輩とか先生、「お局様」みたいな目上の人物に嫌われたら最後、つまり「一生が終わる」という思考があるのかもしれません。この思考は思い込みではなく、正しいと私は考えます。そしてこのことはどこの国の人でも同じでしょう。
もし敬語をうまく扱えたならば、主に2つの良いことがあります。ひとつ目に挙げるのは、緻密な言葉遣いから教養を持っていると評価されることです。そしてもう一つは相手に対して自分自身が「侮辱するような不安をあおる行為をしない存在であることを伝えられることです。
敬語を使い、相手に対して敬意を表現することによって自分に対する社会的評価を挙げる。そのためには、自分を含めた身内の立場を低くする謙譲語を使うことまでもいとわないことが、日本語の敬語が示す、日本人の対人関係における礼儀作法です。
パーソナルスペースが広い日本人
しかし、敬語の役割として相手に敬意を伝えることは建前みたいなもの、つまり副次的効果であると私は考えます。そして敬語を使うことの真の効果とは、相手に対して不安を与えないことにあります。
敬意とは逆に、無礼なふるまいを受けた場合は、だれでも不安の感情を覚えます。無礼の程度が強ければ攻撃的な態度と解釈されてもおかしくありません。扁桃体に起因する感情を抑えられなかった場合は、受け手には怒りという二次感情が発生します。
つまり、日本人が礼儀正しい作法を重んじていることは、諸外国と比べてパーソナルスペースが広いことを意味するといえます。「パーソナルスペースが広い」とは、自分以外の人に自分のことに踏み入ってほしくない傾向が強くなります。このことは、性格が内向的か外向的かは関係ありません。つまり、
- 礼儀正しい ← むやみにパーソナルスペースに入らない
- 無礼 ← さかんにパーソナルスペースに侵害する
ということです。
もちろんパーソナルスペースに入られたときに感じる不安は、正しい反応です。パーソナルスペースにむやみやたらと入る手口を使う人間の代表例が、自己愛性人格者(情動的共感がなく、自己愛に問題を抱える性格の悪い人たち)です。これらは他人を自分の「おもちゃ」にするために、マウンティングを取ったり相手の弱みを握ろうとしたりします。
人間がパーソナルスペースを侵害されたと感じたときに感じる不安は、無意識のうちに性格の悪い人間による攻撃から自分自身のブランドイメージを守ろうとする反応でしょう。ゆえに、この不安は正しい反応であるといえます。
相手からの自分のパーソナルスペースへの過度な侵害を予防するために、前もって自分自身のことを知られないようにするのが手っ取り早いです。そのためにはパーソナルスペースを広くする、すなわち対等に接してこないためのシステムを作り上げてしまえばいいのです。それが、敬語を含める礼儀作法や上下関係の厳しさだと私は考えます。
とはいっても、礼儀作法や上下関係は、個人の不安を払しょくするためのシステムとしては完全とは言えません。詳細は後述しますが抜け穴があり、上司からのハラスメントや、モンスタークレーマーという、このシステムを悪用した行為を抑止できないためです。これが後述する日本人の「生きづらい」に該当すると私は考えています。
日本人の国民性②:公的自己意識の過剰が作り出す「べき思考」
「自我不確実感」をともなう日本人の公的自己意識は過剰である
ここまでの内容を踏まえると、解決案として単純に「上下関係や礼儀作法を排してしまえば、日本人の「生きづらい」を解決できるのではないか…」となりそうですが、これをすぐに排してしまうことは不可能でしょう。
上下関係や礼儀作法を重視する目的は、自己愛性人格者にパーソナルスペースを侵害されるという不安を払拭することでした。しかし、皮肉なことにすでに上下関係や礼儀作法を用意した時点で、別の不安を作り出していることに我々は気づくべきでしょう。その不安の原因となるストレッサーは、公的自己意識の過剰です。
公的自己意識と私的自己意識については、以下のリンク先で紹介されています。
思春期から青年期は人間が自我を形成していく時期ですが、公的自己意識と私的自己意識のバランスが崩れる可能性は、とても高くなります。このとき無意識下で過剰となるのは、公的自己意識のほうです。思春期から言われ始める「自意識過剰」という表現は、つまり公的自己意識の過剰の略語です。
「自意識過剰」について、wikipediaではこう書かれています。
自意識過剰(じいしきかじょう)とは、人が他に対して自己を意識し過ぎた状態。他人が自分をどう見ているかを気にしすぎる状態。 人前でスピーチをする時などに、他者の目を意識するあまりの極度の緊張状態は、あがり症と言われている。*2
「他人からの評価を気にする」という状態は、自我のバランスが崩れていることに起因しています。つまり、公的自己意識が過剰になっているが原因です。もし自我のなかで私的自己意識が損なわれていなければ、「他人からの評価を気にする」という思考様式は優先順位が高くなりません。一方、私的自己意識が過剰な状態とは、例えば思春期前の児童の思考や、「根拠のない自信」すなわちナルシシズムを指すもので、社会的に褒められたものではありません。
もっとも理想的な自我の状態とは、公的自己意識と私的自己意識のバランスが取れている状態です。より具体的に言えば、公的自己意識と私的自己意識のアウフヘーヴェン(止揚)が実践されている状態です。これらは往々にして対立しますが、双方の欲求を別の形で実現できる思考を持っていることが、社会人として生きていくうえで重要です。神経心理学的に言い換えると、前頭前野が担う実行機能が、公的自己意識と私的自己意識のバランスを保ち、その結果「自意識過剰」を抑制できるようになる、と考えられるでしょう。この実行機能の役割を、理性というはずです。
そもそも、公的自己意識とは何か?価値判断基準が自分自身ではないことから、ユングによるパーソナリティ類型論における「外向性」に当てはまるといえます。公的自己意識が過度に高くなった場合、多くの思考様式へと派生するといえます。その例を以下のように思いつく限り挙げてみます。
- 俗にいう「かっこつける」、すなわち人に自分をよりよく見せたいという思考様式
- 「他人に認められたい」という承認欲求
- 「他人からの自分に対する評価が気がかり」という不安
公的自己意識が過度に高いという問題は、特定の年齢で発生するものであり、そしてその年齢層の全ての人間が抱えるわけではないことから、個人レベルの問題であると考えるのが一般的です。しかし、これは個人の問題ではなく、日本人全体にあらわれている問題であると私は考えています。その根拠として私は、謙譲語や上下関係、国技における礼儀作法などの厳格な規定の存在を挙げます。そしてその「礼儀正しさ」は世界中で評価されています。
私的自己意識の低下:日本人の美徳は生理的欲求を隠すこと
「貧乏ゆすり」に対して嫌悪感を示す人は、結構多いと思います。しかし、貧乏ゆすりには足の血行を良くしエコノミークラス症候群を防ぐといった、生理的な意味で合理的な行為です。相手が貧乏ゆすりしていることに対して嫌う理由は以下の通りでしょう。自分の周囲が揺れること、人の相手をしているときに貧乏ゆすりをする人の多くが、人間力を持たないことをアポステリオリに予測できるため、といったところでしょう。
私たち日本人は、本当に礼儀作法を好んでいるのでしょうか。他人からの評価を下げないという目的や、自己愛をより高くするという目的がなければ、興味を持ちません。一方で貧乏ゆすりのような生理的欲求は、「下品」とみなされることから実行したくありません。日本で礼儀作法を美徳とみなすことは、生理的欲求を隠すことを美徳としてみなすことと同義でしょう。その生理的欲求には、不安が作り出す二次的感情の「怒り」も含まれます。
怒りの感情がない国民はいないと思う。しかし、怒りの感情を抑圧した方がよいとされる国民性と、逆に怒った時は表に出した方がよいとされる国民性はあるのではないか。日本では、怒りは抑圧した方がよいとされ、逆に、怒る人間は大人げない人物と見られてしまう。*3
公的自己意識が発する「べき思考」が強い日本人は「べき論」に弱い
公的自己意識は、「他人から見た自分像」を映し出すとともに「自分の理想像」も形成すると考えられます。「他人から見た自分像」はロジャーズによる自己理論でいうところの「自己概念」に相当し、「自分の理想像」はアドラーによる造語の「自己理想」に該当します。
公的自己意識は主観によって形成されたものであるため、当然ながら自己概念が現実に存在する他人や社会からの自己に対する評価と一致するとは限りません。
公的自己意識が過剰であることの問題点とは、自己概念を作る際に、同時に「他人から自分が悪く評価されていないだろうか」という不安を伴うことです。ある時点で不安の感情が強くなっていれば公的自己意識が過剰になり、自己理想に対する強迫性が強くなります。
逆もしかり、はじめは抑うつなどの不安を強化する原因がなかったとしても、公的自己意識が過剰であれば自己理想に対する強迫性が強くなり、不安が発生するともいえます。不安の感情が強くなれば、自我、すなわち情動抑制が機能していないともいえるので、認知の歪みを伴うでしょう。
日本人の国民性として挙げられてはいないようですが、抑うつの最大の原因といわれている「べき思考」とは、公的自己意識が過剰な状態で自己概念とともに作り出された自己理想に対する強迫性に該当します。「べき思考」のしがらみは苦痛を伴いますが、うつ病の発症などで公的自己意識の過剰に歯止めがかからなくなれば、当事者は「べき思考」の脱却について考えないでしょう。この時現実に「べき論」が存在していたならば、その否定は困難になるでしょう。
atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp
日本人の国民性の根本心理として、公的自己意識の過剰を私は提示しました。ゆえに、日本人は「べき論」に弱いということが十分に考えられます。「べき思考」の脱却を達成できたとしても、べき論に対して抵抗することは困難でしょう。
日本人が生きづらいと感じる理由は「べき論への弱さ」
上下関係内のハラスメントとモンスタークレーマーが与えるストレス
公的自己意識が過度に高い状態、いいかえると「怒りの感情を抑圧した方がよいとされる国民性」が損する状況とは、私的自己意識と公的自己意識が真っ向から対立する状態です。自分自身の中でストレスが発生します。
先述しましたが、モンスタークレーマーや上司からのハラスメント それどころかパーソナルスペースを侵害し、攻撃しようとする意思を露骨に表示しているわけですから、彼らの存在は安全欲求を害するストレッサーとして相手に強い不安を与えます。彼らによって害されるおそれのある安全とは、その場の肉体、精神的なものだけではありません。両パターンにおいて、被害を受けている側が社会的立場を持っているという共通点があります。
人間は社会生活を営む上で、自身の社会的立場に気を使っていることは間違いありません。自らが問題を起こしたときのことを考えると、承認欲求の実現どころか、例えば失職するリスクを抱えたり、近所で悪い評判が起きたりということを予測できるでしょう。自身の弱点ともいえる社会的立場こそが日本人に限らず、人間に対して「べき思考」を与える最大の要因といえるでしょう。
優位な立場に位置する「モンスターなんとか」やハラスメントを行う上司に対して、クレーム対応に追われる社員や教員、部下は劣位な立場、社会的弱者に該当します。「モンスターなんとか」やハラスメントとは、相手の弱い社会的立場に利用して、「べき論」を振りかざす行為であるといえます。具体的には、モンスタークレーマーは「お客様は神様」という社会通念を悪用する存在、またハラスメントは上下関係を悪用する行為です。
「モンスターなんとか」やハラスメントは世界中で起こっていることであることは間違いありませんし、むしろ海外のほうが「怒った時は表に出した方がよいとされる国民性」があるため、仕掛けてくる人間が多いでしょう。しかし、日本の場合、被害者の心理状態です。的自己意識が過度に高いことが問題です。
人間力が高いクレーム担当や部下であれば、おそらく自分の感情をあらわにして怒ることはしないでしょう。しかし、それは日本という国が「怒りは抑圧した方がよいとされ、逆に、怒る人間は大人げない人物と見られてしまう」ことを知っているためであって、決して怒りの感情が存在しないわけではありません。少なくとも後になってから抑えていた怒りが沸き上がり、その感情のままに内省すれば、ストレスの原因となります。
例えば「なんでこんな仕事をしているんだろう」というように考えてしまいます。私的自己意識を優先させた場合なら、リスクファクターに対して怒りの感情をぶつけられます。一方で公的自己意識が過剰である場合、怒りの感情をぶつける相手を見つけられません。その代わりに自分自身を責めはじめ、無力感から抑うつに発展する、ということが想定されます。
公的自己意識が過剰なままで生きるということ自体は、直接的に社会的評価を下げない生き方かもしれません。しかし、こうしたリスクファクターに接触してしまった際は、公的自己意識に縛られない、確固たる自我をもって対処するべきです。そうしなければ自尊感情(自己肯定心)を損なう危険性を持ち、抑うつが悪化し、例えば感情のコントロールができなくなったならば、かえって意図しないところで自身の社会的評価を下としてしまう可能性だってあります。
リスクファクターに該当するモンスタークレーマーやハラスメントは、「怒りの感情を抑圧した方がよいという国民性」、つまり公的自己意識の過剰を求められる日本人にとって、ストレスでしかありません。たとえその加害者が日本人であったとしても、彼らはリスクファクターです。
(加筆修正中)日本の息苦しさの正体は同調圧力
同調圧力に対する過敏性(空気の読みすぎ)
日本人の公的自己意識が過度に高いといえるもう一つの根拠が、同調圧力および忖度です。日本人の価値観ということで、中野信子氏も日本人の価値観を表現する際に「同調」を用いています。
「相手の気持を察し、同調を求め、不倫をたたき、幸福度が低い」という日本人の価値観の背景には脳の影響がある*4
同調圧力については、同調圧力を感じ取る側、そして同調圧力を発する側であるマジョリティにそれぞれ、公的自己意識の過剰による問題が存在すると考えられます。
はじめに、同調圧力は日本人特有の問題ではありません。実際、同調圧力に関する海外の研究で、日本人特有の問題ではないことが通説になりつつあります。同調圧力を感じ、発し、忖度できるのは日本人に限ったことではなく、認知的共感が有効であればだれでも可能です。
日本の同調圧力に絡む問題は、海外とどう違うのか。やはり公的自己意識が過剰である一方で私的自己意識をないがしろにしてしまうという、日本人の国民性が絡んでいることでしょう。
同調圧力は「べき論の押し付け」の一種になると思います。先述の通り、公的自己意識が過度に高い状態は、「べき思考」を強める原因です。
社会に出ると、上下関係や利害関係などで人間関係がややこしくなります。その上成人となれば行動に責任が伴い、社会的立場を考える必要が生まれます。こうなれば「長い物には巻かれろ」ということで、同調圧力に従った方が無難と考えることがあります。こうして実行される行為が忖度です。
思い返してみれば、幼少期に過ごした学校生活でも同調圧力が明らかに存在していました。小学校のクラスにおけるガキ大将に対して、自分自身の意見を提示した際に、逆らったと判断された際には非難され、最悪の場合いじめられてしまいます。こういったことを学習するのは思春期より早いはずで、こういったことの学習を通して公的自己意識を強く自覚するのかもしれません。同調圧力の本当の起源は群集心理、権威主義かもしれません。
もちろん全ての忖度が社会問題となるわけではありません。忖度に違法性がなければ、むしろ「認知的共感が極めて高い」ゆえの行為として忖度を評価されるべきだと私は思います。
同調圧力がストレッサーとなる仕組みとは、自分自身の意に反した同調圧力であること、そしてこれに逆らえば、仲間外れにされるか、あるいは自分の見解が通ったとしても自己責任論の餌食にされるのではないかというシナリオをイメージします。そのシナリオは理にかなっており、正しい不安であることは間違いありません。
同調圧力が発生する原因:集団同調性バイアス
同調圧力は受け手が「それが自発的に存在する」と思い込むだけの問題かというと、私はそうではないと思います。つまり公的自己意識が過度に強ければ、同調圧力を発する側にまわりうるということです。同調圧力の受けた経験からその存在を知った場合、同調圧力が存在することを前提に行動することは当然です。
詳細は別の記事で紹介しますが、同調圧力を発する側、そして同調圧力を平然と受け入れる認知傾向を集団同調性バイアスといいます。
まとめ:日本人の文化依存症候群は公的自己意識がストレスになったもの
日本では、本音、厳密には生理的欲求を隠し、社会から望まれるふるまいを実践することを美徳としてみなす風潮が、世界一強いといえるでしょう。その根拠として、国技における厳格なマナー(勝敗や観客には関係がない無意味な礼儀作法)が規定される一方で、人前での貧乏ゆすりに対する風当たりは強いです。
このことを自己意識の概念で言い換えると、生理的欲求よりも公的自己意識を優先するという思考様式が認められます。周囲の同調圧力に従うことや忖度は公的自己意識を優先させる行為です。
日本人が生きづらさを感じることとは、私的自己意識と公的自己意識が相反する状況だったり、同調圧力に従わなかった場合のリスク(仲間外れ、自己責任論)を想像したときでしょう。
そして、公的自己意識が過度に高い状況と、日本語のSOV型語順には何らかの関係がある(相関関係?)と私は考えています。
日本人の思考と、日本語の語順に関する言語的相対論の研究はなければ、初めての試みになりそうですね。日本語が日本人の思考に与えている影響、そして公的自己意識への影響に関する仮説を作り上げるには、日本語のSOV型語順の非効率性をSVO型語順と比較して導き出すことでしょう。