当事者研究ブログ:大人の頭蓋骨縫合早期癒合症

頭蓋骨縫合早期癒合症(軽度三角頭蓋)と高次脳機能障害(容量性注意障害)についての当事者研究のノートです。言語性ワーキングメモリと日本語(右側主要部の規則)の関係について研究しています。目的①頭蓋骨縫合早期癒合症を成人症例、生活史を記事としてまとめること。目的②特異的言語発達障害の当事者研究をもとに、日本語が日本人の思考に与える影響(サピアウォーフ仮説)を考察すること。

日本語の語順がSOV型言語で、述語が文末に配置される理由についての一考察

日本語が難しい言語であるといえる根拠のひとつに、語順が挙げられます。日本語をつかった正しい文の構造は、主語(S)、目的語(O)、述語(V)という順番です。そのため、統語的類型論(語順で言語の分類する方法)では、日本語は主要部終端型言語(SOV型)に分類されます。日本語が「主要部終端型言語である理由」についての疑問は、ほかのウェブサイト上でも提起されていました。

oshiete.goo.ne.jp

今回の記事ではこの問題に対する私自身の回答を紹介します。 

 

主要部終端型言語(SOV型言語)の日本語

言語学における主要部の定義

言語学のうちの統語論で用いられる「主要部」の意味を紹介すると、「それを含む句の統語論的な性質、役割を定義づける語」とあります。

言語情報は最小単位から、「語」、「句」、「節」、「文」に分類されます。主要部の定義に従った例を紹介すると、「大きなリンゴ」という名詞句では、「リンゴ」という主要部に「大きな」という従属部が修飾しているという構造になっています。修飾語・被修飾語の関係でいいかえれば、被修飾語に該当するのが主要部です。

動詞句における主要部は動詞です。「食べられる」という動詞句を分析すると、「食べる」の連用形に該当する「食べ」という主要部の後に助動詞「られる」が従属部として修飾しているという構造になっています。

主要部の位置(右側主要部の規則、左側主要部の規則)

これまでの説明では、句と語の関係でしたが、節と句の関係も同じように言えます。「あなたが昨日買ってきたリンゴ」という名詞節があったとします。この節の主要部は「リンゴ」であり、従属部は「あなたが昨日買ってきたリンゴ」です。

先述した動詞句の構造を除き、日本語では主要部が従属部の後、すなわち横書きにした時の右側に配置されます。これを右側主要部の規則といいます。一方の動詞句の場合は、従属部に該当する助動詞より主要部である動詞が先に配置されます。そのため左側主要部の規則が適用されているということになります。

英語では、"a big apple"のように右側主要部の規則のケースがありますが、ほとんどの場合が左側主要部の規則が適応されています。関係代名詞および関係副詞による従属節形成、分詞による2語以上の従属節形成、"It is A to B" などがこれ該当します。

日本語でも文の主要部が述語であるといえる根拠

言語学における定義では規定されていませんが、文の主要部が主節であることが認められています。「一般に動詞は文の主要部と考えられている」という旨が、東京外国語大学のウェブページ*1にも記されています。

主節は「文の主要部たる節」です。このようにいえる根拠は、主語とそれに対応する述語の組み合わせが、第1文型として成立することから明らかです。

英語では主節が文の主要部ですが、日本語の場合はさらに少なくなり、「主節の述語」が文の主要部としてみなされています。動詞が存在するだけで文が成立します。なぜなら、その述語に対応する主語が省略されたとしても、文として意味が通じるからです。

一方の英語では、日本語のように述語だけで十分というわけにはいきません。少なくとも文語の場合、日本語のように主語を省略できません。なぜなら、動詞だけでは文どころか節も成り立たないからです。

文の主要部である述語が文末に配置される言語であるため、日本語は主要部終端型言語(SOV型)として分類されています。

日本語の文は句の順番を変えても同じ意味になる

統語的類型論で日本語はSOV型言語に分類されています。ただ、それは述語が最後に配置される語順が正しい(規範文法)と規定されているにすぎません。ご存じの通り、日本語の文は句の順番が自由に入れ替わったとしても文の意味が変わることはありません。

形態的類型論による分類によると、日本語は膠着語です。日本語が膠着語の性質を持つといわれる根拠は、句が文で果たす役割を決定する要素が助詞(後置詞)のみであるためです。

膠着語とは、助詞などにより単語同士を結びつけることで意味を表す言語である。たとえば、日本語がある。

屈折語とは、単語の語形変化によって意味を表す言語でありロマンス語やゲルマン語がその代表例である。

屈折語といってもその度合いは様々である。たとえば、ラテン語では語形変化がすべてであり語順は関係ない。実際、語順を変えても意味は変わらない(ことになっている)。一方で英語は次第に「孤立化」していると言われていて、曲用や活用などの語形変化が単純化している。すなわち、英語は語順に依存していると言ってよい。*2

比較対象として英語を挙げると、文の意味は前置詞と語の組み合わせに加えて語の位置で変化します。日本語と比べると、英語は語順の自由さが少ない言語であるといえるでしょう。

 

これに対して日本語は、句の中身(語と助詞)さえ変わらなければ、句の配置を変えても文の意味は変わりません。単文の場合、SVOでもSOVでも、さらには倒置法(OVS)という語順もあります。複文の場合も節の中身を考慮すれば問題ありません。

動詞を文末に配置する理由①:命題内容のあとにモダリティを配置

しかし、日本語は語句の順番が自由であるとはいっても、正しい語順として、述語を最後に配置するという順番を規定しています。普段の会話でも、倒置表現を積極的に用いることはありません。仮に統治表現を用いたり、SVOの順番で話したとすると、違和感を持たれることが非常に多いです(ソースは私)。

日本人が日本語を話すうえで、主語のすぐ後に述語を配置することを避け、文末に配置することにこだわる理由について、私は2つの仮説を考えました。1つ目の仮説は「モダリティ表現を文末に配置する」というこだわりです。

文(発話)の意味内容は,大きく分けて,1)「叙述の素材」としての客観的な意味内容 と,2)「文の述べ方」に関わる主観的な意味内容という2つの部分からなる。前者は「命題内容」(言表事態),後者は「モダリティ」(ムード,言表態度)と呼ばれる(「ムード」 は,「ヴォイス」「アスペクト」「テンス」と並ぶ述語の形態に関わる概念として限定して用いられることもある)*3

人間が発話する文の意味内容のうち、相手に伝達する情報を「命題内容」といいます。この情報の伝達を優先させたいという日本人の考えが、日本語には反映されているように私は考えます。例を挙げると「リンゴを食べたかもしれません」という文のうち、「かもしれない」はあくまでも発信者の主観の意味が込められているモダリティ表現に該当します。それを冒頭に持ってくるよりは、「リンゴを食べた」という命題内容の伝達を優先させるということです。

しかし、依然として疑問は残ります。主節の述語は命題内容の一部です。これを文末に配置する理由というより、文末に配置せざるを得ない理由というべきでしょう。

日本人が日本語を話すうえで文末に配置したかった句は動詞ではなく、助動詞です。その助動詞がモダリティ表現、すなわち話し手の主観の意味を持つことが多い句に該当します。モダリティ表現には、「かもしれない」や「できる」といった純粋な助動詞や、敬語表現などが挙げられます。

あと、日本語のモダリティに該当する助動詞には言い換え表現が存在することにも私は注目しています。たとえば「わかる」という動詞に可能動詞を付ける場合を考えてみますと、複数のパターンがあります。「理解できる」というように類義語の動詞で言い換えるか、「わかることができる」といえばよいでしょう。

敬語表現も同様です。日本語には「おっしゃる」のような「完全変態」、すなわち元の動詞の面影がない敬語表現がありますが、すべての動詞にそれが存在するわけではありませんし、あったとしてもそれらをいちいち暗記するのは大変です。ですので動詞の連用形に「られる」をつけたほうが良いです。

目上の人と会話するときのような丁寧な表現を用いるべき状況では、文末表現として日本人は動詞の連用形に助動詞をつけるという活用表現より、名詞節の後に「できる」や「される」を使用する傾向があります。「~することができる」や「~をされる」と表現した方が、念押ししているというモダリティをさらに伝達できるという効果があるように感じます。 

(執筆中)動詞を文末に配置する理由②:一度で説明しきらなければならないという強迫観念

日本語の文で述語が文末に配置されることのもう一つの理由、これは修辞法(レトリック)に興味を持つ機会がなかったゆえに話すのが冗長な日本人の深層心理ですが、情報伝達をする際の一回性に努めようという気持ちの表れが、

実はSOV型言語は人間の自然な思考に相応の語順であるといわれています。

wired.jp

この「自然な思考」の定義づけは難しいですが、持論を一言で表現すると、「相手に対する配慮」だと思います。

先述したように、私は日本語をSVO語順で話すことがあります。特異的言語発達障害を抱えているため日本語の複文を話すときに限って実践していることですが、私がSVO語順で話すと、相手は違和感を持ちます。

理由は明白で、そういう話し方をしてる人が周囲にいないことや自分自身がSVO語順で話さないからです。

(加筆修正予定)日本語の難しい語順と脳の疲労

日本人の国民性が「公的自己意識の過度に高い」といえる根拠について、以下のリンク先で紹介しました。日本語の語順のことも少しだけ触れました。
atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp

日本人が生きづらさを感じる根本原因として、言語的相対論の観点から日本語の語順であるという考えを提示しています。

日本語が採用する"SOV"という語順は、日本語が抱える文法面での難しさであると私は考えています。日本語には語彙面での難しさと文法面での難しさをそれぞれ抱えています。語彙面での難しさは、国民性に良い影響を与えていると私は考えています。これに対して、文法面での難しさは、ストレッサー以外の何物でもないと思います。

もし、日本語の文法がストレッサーであるならば、第3次産業が主流となった現代の日本社会では言語行為の重要度および頻度がともに上がったため、そのストレッサーに晒されることが多くなり、ストレス反応のリスクが上がります。そのストレス反応が、脳の疲労です。

日本語というストレッサーが脳に与える影響が、ワーキングメモリの酷使です。すなわち複数の短期記憶の同時保持をすることが、日本語の場合多いということです。

日本生まれの日本人である私からしてみても、日本語を正しく話したり書いたりすることは大変だと思います。単文はそうでもありませんが、複文を表現したいときにそのように感じます。

話したり書いたりなどの言語表出だけでなく、リスニングや文章読解も同様です。ここ以外のウェブサイトでも、同様の書き込みがあり、同意している方もいる状況です。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

私は、「容量性注意障害に起因する特異的言語発達障害」を抱えています。そのため、日本語を使用しているときに、複文の認知という言語行為の困難性を意識することが多くあります。

 

atama-psycho-linguistics.hatenablog.jp

 

一方、英語の複文ではその困難性が意識することなく、その認知を難なくできます。そこで、私は日本語を英語の語順で理解、表出するようにしたところ、いくだんか簡単に認知できると感じるようになりました。このことから、日本語と英語の語順の違いが、ワーキングメモリが必要になる場面の有無にかかわっていると考えています。詳細は後日投稿する記事の中で紹介します。