キーワード:謙譲語、公的自己意識、自意識過剰、不安、パーソナルスペース
- 日本語の敬語が難しい理由は謙譲語があるから
- 謙譲語が日本人の公的自己意識の過剰を示す
- 敬語が示す敬意と不安
- 敬語を使うメリット①:上下関係から自分を守る
- 敬語を使うメリット②:相手のパーソナルスペースを侵害しない意思の伝達
- まとめ、日本語の敬語の由来(作られた経緯)についての持論
日本語の敬語が難しい理由は謙譲語があるから
日本人の礼儀作法の厳格さは、全世界の中で図抜けていると思いますし、事実そうでしょう。「おもてなし」に代表される店員の接客態度の良さや、国技のルールなど、いろいろ挙げられますが、中でも重要なのは日本語の敬語です。
日本語だけに限らず、世界中の言語に敬語が存在します。英語では欲求を表す不定詞について、フランクな表現から順番に”wanna”, "want to", "would like to"と表現の種類があります。ただ日本語の敬語表現は特殊で、扱う敬語の活用を決めるための基準は、自分と自分の話を聴く相手の関連性だけに限りません。
謙譲語という、自分の話を聴く相手と叙述(話の中身)の主体との関係で決定する敬語表現も存在することこそが、日本語の敬語の特殊性です。尊敬語を使わなければならないような相手に対して、「身内の行動」という叙述で扱う動詞の活用形として尊敬語は選ばれません。例えば「私の母が言っていた」という文は「私の母が申して上げていました」と謙譲語表現に変化させます。
話題に登場する人物のうち、主語で表す人物を上位者とする形式を尊敬語、目的語で表す人物を上位者とする形式を謙譲語と呼び、話題の聞き手を上位者とする形式を丁寧語と呼んでいます。*1
謙譲語を扱うことと単に丁寧語を扱うことの違いは、使用者による相手に対する自身の立場のへりくだりの有無です。丁寧語や尊敬語を使用する際は、相手に敬意を示すだけで終わっています。これに対して謙譲語は、相手への敬意に加えて、自分、あるいは身内の立場を相手より下であることを明言する機能を持つといえます。
外国人の日本語学習者にとって、謙譲語の機能を理解することは困難であるといえます。我々日本人の場合、3種類の敬語を学校で学ぶのは小学生のあいだです。しかし、学校で教えてもらったとしても、謙譲語の存在意義を理解したうえで扱える小学生は、少数派でしょう。それどころか、成人になったとしても謙譲語を理解できないゆえに扱えない日本人も存在するはずです。
謙譲語が日本人の公的自己意識の過剰を示す
日本語特有の謙譲語について、日本人の公的自己意識の過剰性が表面化したものと私は考えています。
人間は、自分の欲求を最優先事項にするという、私的自己意識が強い状態で幼少期を過ごします。その状態から敬語を扱えるようになる時期、厳密には、敬語を扱わなければならないと考えるようになる時期は、思春期でしょう。もちろん日本人に限ったことではありません。
思春期で自我の発達プロセスが開始されますが、その第一段階が公的自己意識の存在を把握です。「自分がどう思われているか」という他人からの自分に対する評価を気にし始めるようになります。部活動を通した上下関係の学習に限らず、同調圧力、忖度といった認知的共感の技能も可能になります。このときに、敬語を使い始めるようになります。
先述したように、日本以外の国では敬語を用いる際に相手への敬意にランクがあるくらいで、自分自身をへりくだらせる敬語表現はありません。これに対して日本語には謙譲語という、自分自身をへりくだらせる敬語表現が存在します。このことは公的自己意識が高いと言い換えられるので、日本語は敬語表現の面でも「自意識過剰な言語」といえると私は考えます。
敬語が示す敬意と不安
さて、敬語の役割、我々が敬語を使う目的とは、まず筆頭に挙げられるのは文字通り、相手に敬意を示すことでしょう。ですが、これだけでしょうか。確かに敬愛する人物に対して雑な対応をすることはやりたくありません。むしろ逆で親愛の情を抱く対象となる人物に対してはフランクに接したくなるはずです。もちろん「親しき中にも礼儀あり」という格言の通りにすることのほうが正しいですが。
しかし、これは敬語を使うことが礼儀といえるのでしょうか。敬語を使われることに違和感を感じることを示す表現として「慇懃無礼」表現もありますし、突然仲の良い人から敬語を使われれば「よそよそしくなった」と感じるでしょう。実際、それまでは親しくフランクに接しあえる間柄から一転して敬語を使うようになるのは、親愛の情を感じなくなったときでしょう。
要するに、敬語の内容である「敬意」とは親愛の情とは異なるといえます。その正体について私は公的自己意識がかかわっていると考えています。
公的自己意識に注意が向きすぎれば、私的自己意識への注意がおろそかになります。この状態が続いた際、不安感情が強まることが一般的に指摘されています。具体例を挙げると、あがり症、気分変調症関連では社交不安障害などがあげられます。
日本人は公的自己意識に注意を向けすぎているために、日本人が敬語の使用を文化として受け入れていることを踏まえると、敬語は不安と密接な関係にあるということです。
このことは、敬語を使うべき理由のヒントになります。
敬語を使うメリット①:上下関係から自分を守る
先述した通り私たちが敬語を使い始める時期は思春期です。ちょうどこのころ学校生活の中でも部活動の参加が一般的になります。このとき1年生から見れば上級生がいます。学校の部活動は社会勉強であり、その目的は、人間社会を構成する「序列」という秩序を未成年に知ってもらうこと、そして教員ではなく同じ立場の未成年を相手に学ばせることであると私は確信します。
ひねくれた考えかもしれませんが、生徒相手では権力を持つ教員は、勉強を強制する立場ゆえに生徒に嫌われる立場であるのに対して、上級生は同じ生徒という立場ゆえに反抗が起きにくいのかもしれません。
学校生活の上下関係の中で敬語を使わなければならないという「暗黙の了解」について、下級生側にとっては社会勉強になる以外のポジティヴなメリットは皆無でしょう。ネガティブなメリットを挙げると、上級生に嫌われ、いじめのターゲットにされないことであるといえます。
逆の視点から言うと、人間が敬語を相手に使わせることの目的は、上下関係を構築し、優位性を確保することでしょう。つまり上級生の立場からみても、敬語を使わせる理由は自分を守るためです。
敬語を使うメリット②:相手のパーソナルスペースを侵害しない意思の伝達
自意識過剰な日本人に限ったことではないかもしれませんが、相手からフランクな口調、ふるまいをされた際に相手のことを「なれなれしいな」と思う人は少なからずいるはずです。なぜそう思うかというと相手が敬語を使っていないからなのですが、さらにいえば初対面、あるいは知り合って日が浅い相手からため口で話されたときに、不安の感情が強く出ているからです。
先述したように、人間は上下関係でから自分自身を守りたいという安全欲求に加えて、相手と対等な関係、あるいは相手より優位な立場にいたいとも考えています。そのため、逆に相手から侮辱されれば不安を感じ、不快感が強くなります。
もちろん相手からちょっとしたフランクな態度で接されたことで不機嫌、不快になるというのは、すべての場合で言えるわけではありません。態度の失礼さの度合いが強い場合、神経症傾向(気分変調症)や悪性自己愛傾向という先天性気質、抑うつなどの後天的な問題を持つ場合くらいでしょう。
しかし、心身ともに健康な人物であっても、自分に接触してきた相手の素性を把握していないときは、不安になるはずだと思います。世の中、悪性自己愛者(自己愛性人格障害)という悪人やサイコパスがいます。それだけに限らず相手が自分とは違う、得体のしれないものであると感じる際にも不安を感じます。その不安に従い、相手と自分との間の距離が「近く」なることを防ごうとします。心理学的に言えば心理的距離(パーソナルスペース)を確保するのです。
侮辱相手から侮辱されるとまではいかなくても、パーソナルスペースが広い場合、フランクな態度(よく言えば)で接された際は、パーソナルスペースを侵害される、言い換えればマウンティングされるかもしれないということで、不安の感情が強くなります。
初対面の人に対して敬語を使うことのメリットとは、相手をマウンティングしないことの意思を伝達する効果があることです。そのため、無自覚に相手のパーソナルスペースを侵害するリスクをなくすことができます。
まとめ、日本語の敬語の由来(作られた経緯)についての持論
敬語の役割は文字通り敬意を表すことですが、この敬意は不安に近いものと考えます。敬語を使うメリットを要約すると、自分を守るため、相手の不安を軽減することだと思います。
日本語の敬語、とくに他国では滅多にみられない謙譲語が創出されたことについて、日本人が公的自己意識が過度に高いという国民性を持つこととの間には、密接な関係があると私は考えています。相手を不安にさせないために敬語が生まれたということは、同時に利用者自身が自意識過剰によって不安になりやすいということでもあります。
日本語の敬語表現の創出された経緯と、日本人の国民性を形成しているファクターは同じであると考えています。それは、日本語の語順規則に該当する、「主要部後置型語順」です。