封印されしアタマのなかより(大人の早期癒合症)

病気ブログというよりは、心理学や言語学を扱ったブログです。きっかけは特異的言語発達障害(SLI)・聴覚情報処理障害(APD)・注意欠陥症状(ADD)。頭蓋縫合早期癒合症の成人当事者です。

「頭がいい」ってなんだろう?② ~「秀才」の特徴~

・3つの要素の関係性

「天才肌」と「天才」を分ける必要があると言いましたが、これには根拠があります。天才と秀才との差として、天才肌という要素が存在するからです。つまり、秀才には備わっていない条件を天才は持ち合わせており、その条件を天才肌が持っているということです。

これら3つの要素の関係性を表した構図は以下のとおりです。

 

○ 天才肌+秀才=天才(天才肌が秀才の要素を獲得すれば、天才になる)

○ 天才-秀才=天才肌(秀才には存在せず、天才に備わっているものだけを、天才肌は持っている)

 

まず、秀才とはなにかについて説明します。

 

・秀才の特徴

秀才とは、

社会の一員として生きていく上で必要な能力が優れている人物

を意味すると私は考えます。

 

特徴

・処理速度が速いゆえに、こなせる仕事量が多い

・情報処理の質が高い

 

ゆえに、秀才の役割とは、

社会の中では既存の範囲内」での情報処理素早く、且つ良質にこなしていく

ことです。

 

・処理速度が速いだけの「秀才肌」は、「秀才」ではない

「秀才肌」とは、

先天的に秀才になりうる条件を持つ人物

を意味します。

高いワーキングメモリが生まれつき備わっている人物のことです。

ワーキングメモリが強ければ、処理速度が速くなるので、こなせる仕事量が必然的に多くなりますし、また瞬時に高度な情報処理ができます。

しかし、処理速度が速いだけの「秀才肌」は秀才ではありません。処理速度が速いだけでは処理の質は伴わないからです。

秀才になるためには社会性を含めた知識の学習の積み重ねを経て、情報処理のを上げる必要があると私は考えます。

 

高いワーキングメモリを有しているという「秀才肌」の要素は、秀才になるためには非常に有利な条件です。しかし、これは補助的な条件に過ぎません。特別に高くなくとも、ある程度のワーキングメモリを備えていれば誰でも秀才になれると私は考えています。

 

・「既存の範囲内」の意味

秀才の役割の説明にあった「既存の範囲内」とは、

社会で指示された内容や社会一般の認識に対して忠実であるさま

を意味します。

ただし注意してほしいのは、忠実であるだけだと、おそらく社会に押しつぶされるか、あるいは社会情勢に翻弄されてしまいます。

 

一方で、忠実でありながら、自己の欲求とのバランスを上手に保たせながら、自己流に物事を処理できる人たちがいます。

心理学の言葉を借りれば、秀才としての最終形態とは「エス」(欲求)と、「超自我」(社会規範)とのバランスがとれている状態を保てる人、すなわち

「自我」が強い人

だと私は考えています。この段階に到達すると「天才」とほとんど同じです。

 

・まとめ(凡才→秀才までのステップ)

 

補助条件(秀才になるためには有利な条件だが、必須条件ではない)

:高いワーキングメモリ → 秀才肌

 

+ 社会性などの知識の積み重ね → 情報処理の質の向上

 

+ 強固な「自我」の形成 → 社会情勢に翻弄されないような確固たる信念の形成

 

 

次回は「天才肌」及び「天才」の詳細について説明します。

 

(つづく)

「頭がいい」ってなんだろう?① ~「天才」という言葉の意味と使われ方の分析~

「頭がいいね!」

このコトバは、多くの人にとって褒め言葉になるのではないでしょうか。

突然「頭がいいんだね」とだれかに言われたら、それを純粋に解釈すればわたしも嬉しい気持ちになります。嫌味で使うことってあまりないですしね。

しかし、このコトバについてよく考えてみると、あいまいだと感じませんか?

 

結論をいってしまうと、「頭がいい」とは、頭の働きが優秀であるさまを表します。

しかし、優秀さとは一体何なのでしょう?

 

  • 「秀才」と「天才」

例えば、中でも

「秀才」(英:Prodigy

「天才」(英:Gifted)

の2つの言葉は優秀であるさまを表現するために多く使われています。

 

まずは、この2つの言葉に焦点を当てましょう。

同じ優秀であるさまを表現する言葉でも、「秀才」と「天才」との間にはいくらか差があるようです。

 

意味を比較すると

「秀才とは、努力をして優秀になった人」

「天才とは、努力をしなくても優秀な人」

という解釈もあれば、

 

「秀才とは、後天的に優秀になった人」

「天才とは、先天的に優秀な人」

という解釈もあり、解釈は多種多様です。

 

実際、世間では、

不才>凡才>俗才>秀才>奇才>天才>鬼才

というように序列があると認識しているようです。

 

では、「天才」と「秀才」の2つの言葉の間には、一体どのようなちがいがあるのでしょうか?

 

  • 「天才」と「秀才」のニュアンスの違い

まず、「天才」というコトバがどういう場合に使われるのかについて分析します。

 

  1. 能力が全般的に優れている者を示す(名詞的) ←最も正しい使い方

Ex. あなたは天才であるに違いない。

 

  1. 特定の能力が優れている状態を示す(形容詞的)

Ex. 天才卓球少年、天才的な発想

 

  1. 偉人」の意味で用いられる

→例えば、世の中では物事を発見、あるいは発明した人がいるとします。その人が与える社会に対する影響は大きいです。すると、賛辞を込めた称号として、「天才」の言葉が用いられます。その点、「偉人」と使い方が似ていますね。

個人が持つ能力の高さと、その個人が社会に与える影響力の強さは比例の関係にあります。すると、個人が社会に与える影響が強ければ、その人物は畏怖の対象となり「天才」とよばれるようになるでしょう。その影響が良いものであれば、偉人としてのニュアンスも含まれるようになります。

当然、天才ではない偉人は存在するでしょうし、偉人になれない天才もいるでしょう。

 

一方、「秀才」はこれらと同じように使われません。

よって、あらゆる面において「天才」は「秀才」を凌駕しているといえます。

 

  • 天才肌」という言葉

意味:「天才」としての素質を先天的に備えている人物

ですが、天才ではありません。

「変人」といったところでしょう。

 

後ほど詳細を説明します。

 

ここまで秀才」「天才天才肌を加え、合計3つの言葉が登場しました。

次回は、これら3つの概念の関係性と意味について説明します。

 

(つづく)

注意力(ワーキングメモリ)の役割とその障害

注意欠陥障害の問題とは、文字通り注意が欠如しているのですが、私が「注意力」と名付けたものは、一般的にワーキングメモリと呼ばれています。ワーキングメモリはいわば

自己の意識とその外側との媒体

のような役割を担っています。ワーキングメモリの役割の詳細を、記憶との関連性を紹介しながら説明します。

 

・ワーキングメモリの役割と短期記憶・

記憶は長期記憶と短期記憶の2つに分類されます。

短期記憶と長期記憶の関係性を説明すると、短期記憶から海馬による精緻化リハーサルを通して変換されてできあがる記憶が長期記憶、といったかんじです。

長期記憶は場所が変わり時間が経過しても引き出せる性質を持っており、その貯蔵可能容量は無限であるといわれています。一方の短期記憶の貯蔵可能な容量は人それぞれです。

ワーキングメモリとは、短期記憶のほうの「貯蔵庫」の役割を担っているものとして概念化されたイメージです。脳みそのどこにあるかは未だによくわかっていないようですが、私は大脳皮質にあると考えています(その根拠は自分の経験より)。

 

人間が外部からの情報の入力処理、及び外部への情報の出力処理を行う際には、情報の短期記憶としての記銘がされています。つまり、ワーキングメモリに情報を貯蔵し、短期記憶としての積み重ねをしながら情報処理をしているのです。

 

 

・ワーキングメモリのイメージが把握しにくいという方へ・

わかりにくいと思うので身近な例を上げると、パソコンのキャッシュメモリがワーキングメモリに該当します。パソコンが何らかの情報処理をするとき、まずHDD(あるいはSSD)に入っているプログラムデータやメディアファイルを読み出します。つぎに読み出したそれらのデータを貯蔵し、「情報処理」をします。

この貯蔵と情報処理をキャッシュメモリが担っています。

そして、キャッシュメモリによって貯蔵された情報が、人間の短期記憶に該当します。

 

・ワーキングメモリの弱体化が招く影響・

もしこのワーキングメモリが弱体化、すなわち容量が小さくなったらどうなるのでしょうか。

 

・同時に処理可能なタスクの量の減少

極端に言えば、マルチタスクができません。同時に2つ以上のことに注意を向けられなくなり、不注意症状が現れます。

(私は自分自身のこの症状について、「顕在意識の幅が狭い」と表現しています。)

注意欠陥障害がこれに該当します。

 

・高度な短期記憶的情報処理が困難になる

外部からの情報の入力、及び外部への情報の出力処理は、短期記憶の積み重ねをすることによって達成できます。

ワーキングメモリが弱体化とは、言い換えれば短期記憶するための容量が減ることを意味します。つまり短期記憶となるはずの情報を通常のラインまでに積み重ね終える前に、情報がワーキングメモリの容量から漏れ出してしまいます。

すると、高度な短期記憶的情報処理ができなくなるわけですが、これを言語学的説明すると、例えば、統語論的に複雑な構造の文の理解が困難になります(線上性と関係あるかもしれない)ので

人の話を理解できない、文章を理解できない、作文が苦手になるなどの症状が現れます。

 

これは、広義の学習障害です。

そして、特異的言語発達障害(SLI)や聴覚情報処理障害(APD)です。

 

おそらく、発達障害のなかで特定不能とされている部分(SLI, APD, PDD-NOS)は、ワーキングメモリに深く関わっていると私は考えます。

ADDと学習の障害

 注意力(以下、ワーキングメモリ)の不足が症状であるADDがもたらす悪影響は、日常生活における不注意の問題だけでなく、実は学業面にも及びます。

より正確にいえば、ワーキングメモリの不足は言語面に悪影響を与えるため、言語を媒体にした学業の学習が不得意になるのです(逆に、言語以外の情報媒体を通した学業の学習は影響を受けない)。

 

・注意力(ワーキングメモリ)の役割

ワーキングメモリは、短期記憶や同時処理を行う上での土壌として機能します。

タスクの情報量が大きい場合や、同時に処理するべきタスクの量が多い場合は、それらを処理するためにはワーキングメモリが多く必要になります。

一方で、ワーキングメモリが通常より弱いとどうなるか?

それについて、今日に至るまで分類されている特異的言語発達障害(SLI)や聴覚情報処理障害(APD)は、ワーキングメモリ自体の弱体化が原因ではないかと、私は考えます。これらの言語障害を抱えると、言語を使う学習やコミュニケーションに困難が生じるとともに、学業に支障をきたすようになるのは確実です。

以前の記事のなかで、集中力に欠陥があるためにワーキングメモリを活用しきれていない状態であるために学習が困難になるADHDは、衝動性を抑制できれば学習の困難さがなくなるのではないかいう私の考えを提示しました。それに対し、ワーキングメモリ自体の弱小化が原因のADDは、集中力の問題ではないのでワーキングメモリを拡張しなければ解決できないと私は考えます。

 

・ADD≠LD

ちなみに、前回の記事で、ADHDとLDが全く別物という結論に至ったのと同じように、今回のADDとDSM-5上のLDも別物同士です。つまり両者が併発していたとしたら、それは偶然です。

 

・LDというネーミングについての意見

LDという名称は、その性質上、学校教育という環境の中での学習に決定的な問題を発生させる神経発達障害であるために名付けられたのでしょう。しかし、学習に悪影響を与える神経発達障害がLD以外にも存在することも事実で、これらとの混同は素人間では避けられないような気もします。

ADHDやADDは本人たちの意志で解決できる問題ではありません。なので、字面で解釈すればLDであるのは当然です。

DSM-5で定義づけられた限局性学習障害に含まれる読字障害や算数障害、書字障害は「認識の障害」であり、「LD」という名称はふさわしくないような気がします。

ADHDとLDの関係性についての分析してみる(2)

ADHD≠LD・

前回に引き続き、次にADHD学習障害との関連性を検証します。

ADHDの症状は、衝動性に基づく不注意性および多動性です。すると、本来の目的となる行為の遂行を衝動性が阻害するので、ADHDが学習に悪影響を与えることは確実です。

例えば、

・文章読解を解いているときに、関係のないことを考えてしまうのをやめられず、内容が理解できない

・授業中にずっと座っていることを我慢できず苦痛である

・授業中に好きな異性のことを見ることに夢中になることがやめられないために、先生の話を聞いていない

(もちろんADHDではない普通の人間でも、これらの衝動はよくあることです。衝動が発生してからさきが分かれ道で、ADHD特有の衝動性、すなわちその衝動の抑制がうまくできない部分がADHDの特徴ではないかと)

 

これだと学業に支障をきたし、成績が悪化するのは明白です。

しかし、ただそれだけのことなのです。

上記の症状のような衝動を抑制することができるようになれば、注意力を適切に配分できるようになり、学習にも集中して取り組めるようになるはずです。

LDの方は、脳内の認知経路の異常であるため、どんなに集中しても克服できません。

よってADHDによって「学業が障害された状態」はLDではないといえます。

 

ADHDとLDの親和性・

つぎにADHDとLDの病理学的な親和性の有無について検証してみます。

 

妊婦がアルコールを摂取すると、胎児の脳の発育に悪影響を与えるということを中学校の保健体育で学習した記憶があるくらいで、機序については詳しく知りません。

 

ただ、ADHDとLDとでは、脳内の異常箇所は全く異なります。

ADHD神経伝達物質の分泌異常による前頭葉の機能低下。

・一方のLDは、後頭葉頭頂葉、あるいは側頭葉にのびる神経の機能異常。

 

なので、ADHDとLDの症状が併発している状態は、2つの障害が別々に作用しており、偶然に併発していると考えるべきでしょう。

 

・結論・

DSM-5で定義づけられるADHDとLDの関係性の結論は以下のとおりです。

LDという認知障害だと、学業に支障をきたす →真

ADHDの衝動性が強いと、学業に支障をきたす →真

ADHDの衝動性が強いと、LDになる ⇒偽

しかし、ADHDとLDの発生との間に必然性はない。両障害が併発しているならば、それは偶然である。

 

・…とここで問題提起・

今回の検証ではADHDとLDとの間には共通点がないという結論に至りました。しかし、ADHDとLDの関係性について、話題になっていたのはそれだけの理由があります。

 

前回の記事の冒頭で、私はADHDとLDとの間に一定の関係性があると考えていると書きました。

それは、ADHDの範疇の中に存在するADDの場合です。

これまでの検証では衝動性に基づく「集中力不足」が原因のADHDを扱ってきましたが、次回は「注意力不足」が原因のADDが学習に与える悪影響について検証してみようと思います。

(つづく)

ADHDとLDの関係性を分析する (1)

・Prelude・

発達障害にはいろいろな種類があります。そしてひとつひとつ違う症状を持っていて、それぞれが独自の原因や機序を持っています。にもかかわらず、不思議な事に発達障害は併発することがあります。しかも、低いとはいえない確立で。

 

併発の原因や発達障害の機序の多くははっきりと解明されていません。その結果、従来の枠組みでは判断できず、まるで併発しているかのように複数の発達障害の範疇をまたいでいるような障害は、「特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS)」という言葉で表現されるという始末です。

 

特に有名なの(私が個人的もに興味を持っていること)は、ADHD学習障害(以下、LD)の併発する可能性です。

先に結論を申し上げますと、私はこの併発可能性には部分的に規則性があると考えています

私の考えを説明するまえに、「学習障害」の定義やADHDの「集中力欠如」や「注意力欠如」の学習との関係性について検証する必要があります。

 

 

・LDの定義・

ADHDとLDの併発について検証するために、まずLDとは何なのかを知る必要があります。

DSM-5では学習障害が限局性学習障害と総括的に定められていますが、このままだとわかりにくいので便宜上、以下のようなさらなる分類をします。

 

限局性学習障害

・言語性学習障害(※):言語行為に影響を与える、学習における認知障害(読字障害、書字障害、算数障害など)

非言語性学習障害:言語行為以外の行為に影響を与える、学習における認知障害

 

言語性学習障害という類型は、言語そのものの理解度は良好な一方、言語を他の形で表したものを言語であると認識することに難があるという認知障害を示すようです。

一方の非言語性学習障害という類型の定義を説明するのは困難です。おそらく、言語性学習障害と定義づけられるものをのぞいた学習障害の総称ではないかと思われます。これらに共通する定義は存在しないと言っても過言ではありません。言語性と同じく、認知経路が障害された状態を指します。

 

これらの学習障害の原因は、脳内の認知系統の発達不全にありますことが病理学的に実証されています。

例えば読字障害の場合、文字を見ることができますが、それだけで終わってしまうのです。脳内にある、言語記号を音韻へと変換するまでの経路が障害されているのです。

結論、障害の程度によりますが、これらの学習障害の特徴はどんなに集中していても、それを克服できないことです。そのため学業に与える悪影響は計り知れません。

 

次回は、ADHDの「学習が障害されている状態」と学習障害との関連性を分析します。

 

(つづく)

ADHDの不注意と「ADD」の不注意の比較検討

1.ADHDの不注意症状の分析

ADHDで多動性が寛解する可能性については前の記事で説明したとおりです。

しかしその一方で、多動症状の原因と考えられる衝動性は残存します。また多動症状が寛解すれば不注意症状がなくなるというわけではないようです。実際、多動性が見られない「不注意優勢型ADHD」では衝動性が消えておらず、また不注意症状も以前強くあらわれたままです。

私は多動性と不注意性の関係性について以前から興味を持っていました、この不注意性について考察していきます。

ADHDの不注意性はなぜ発生するのでしょう?その答えの通説を紹介すると↓

頭の中で考えていることが「多動」であるために、目的の行為に注意を配ることができないため、といわれています。

 

これに対して、私は↓

「多動」だからではなく、衝動の抑制ができないこと、すなわち「衝動性」が不注意を招いている

という表現のほうが正確なのではないかと考えます。

 

私はADHDの不注意性について、以下のような仮説を立てました。

 ・衝動性を抑制できないことで、本来の目的に向けられるはずの集中力を発揮できない状態が、ADHDの不注意症状につながっていること。

 

ADHDの不注意症状と「ADD」の不注意症状は、不注意と評価される帰結が同じなだけで、原因や機序といった本質的な部分は別物同士であること。

 

2. 「不注意優勢型ADHD」について

多動性や衝動性よりも不注意性が目立つ不注意優勢型ADHDは、多動性が見られない程度に衝動性が抑制されたADHDではないかと私は考えます。

子供の頃に多動性が強く現れていたためにADHDと診断された人も、成長する中で社会性を身につけることで多動性が抑制されます。しかしこのとき、同時に衝動性がなくなったわけではないことは以前に記述したとおりです。この衝動の抑制は、学習した社会性が手助けしている状態なのです。するとその結果、残存している衝動性と不注意性が優位になります。これが不注意優勢型ADHDです。

すなわち、多動性の要因を取り除くことで、ADHDの性質を持つ誰もが不注意優勢型ADHDになるといえます。

 

 

3.  (ADHD)-(多動性) ≠ (本来のADD)

おそらく世間では「不注意優勢型ADHD」と呼ばれている障害は、まるでADHDから多動性を抜き取ったような症状を示すために、世間ではそのまま表現に反映させて「注意欠陥障害」(ADD)とも呼ばれているかもしれません。

 

しかし、多動性という言葉が取り除かれたうえで成り立つ「ADD」という表現にもっとふさわしい内容の障害、すなわち、

多動性だけでなく衝動性もない一方で、注意欠陥を特徴とする障害

が存在するので、それを私はADDとよぶことにします。

 

このADDとADHDの不注意症状は共通点であり、似て非なるもの同士です。その違いについてこれから説明します。

 

  • ADHD及び不注意優勢型ADHDの不注意性

これは衝動性ありきの不注意です。すなわち本来達成すべき目的とは関係のない脳内の衝動性が、「注意力」(※)の運用を妨害し、目的の遂行を邪魔している状態。

つまり、衝動性の問題を完全に解決すると不注意性もなくなるのではないかと私は推測します。

(※注意力=ワーキングメモリです。)

 

  • ADDの不注意性

これに対し、ADDの不注意はワーキングメモリの弱さが原因だと私は考えます。

例えば、「ブレインフォグ」や離人症は、ワーキングメモリに直接作用しているものではないかと思います。

 

 

4. 「注意力」の意味

この「注意力」を説明するのは、私の文章力では困難なので、比喩を用いながらその特徴を以下のように紹介します。

  • パソコンの部品に例えるならば、「メモリ」に該当する

パソコンのメモリが情報処理のために情報の短期記憶の機能を担っているように、人間の脳でも注意力をベースに短期記憶の維持リハーサルが頻繁に行われています。

パソコンのメモリの大小がコンピュータの処理速度に関わるように、注意力が小さければ短期記憶の維持リハーサルに難が生じる。

 

  • 情報を処理するための「作業台」

事実、作業台の面積が広いほど、情報処理の速度の向上だけでなく、同時に処理する工程の増加を見込めるように、「注意力」がマルチタスク機能に関わっています。

 

ADDの人をパソコンで例えるなら極端な話、

メモリが2GBしか搭載されていないパソコン

です。実際、パソコンに搭載されているプロセッサがどれだけ高機能だったとしても、メモリの容量が小さければパソコンの処理速度が低下するだけでなく、同時処理が苦手になります。

ADDの人間も同じです。通常時でもマルチタスクは苦手ですし、あることに集中すればするほどほかのことに意識を向けるを配ることができなくなります。

 

5. 注意力と集中力の混同(集中力の意味)

世間一般の認識において、集中力欠如と注意力欠如は同じ意味の言葉であるかのように使われています。

例えば、自動車の運転をしているとき。

ドライバーが運転に集中していなかったとしたら、周囲への注意を配ることは当然できません。つまり、「集中しなければ、注意を向けられない」、という因果関係が成り立っています。

つまり、集中力と注意力は同じ意味ではありません。

 

集中力とは、衝動を抑制しながら意識を適切な方向に集中させる力です。

もしこの力が発揮されなければ、注意力そのものに不備がなくても機能しません。

集中力がなければ、どんなに大きな作業台(=注意力)が目の前に置かれ、且つどれだけ種類豊富な工具(=知識)が備わっていたとしても、作品を作り出すことができるでしょうか?それは不可能です。

つまり注意力が発揮されるのは、集中力ありきの状態のみということです。だから、集中力に不具合のあるADHDでは不注意性が発生するのです。

 

6.まとめ

ADHDという言葉の構造を上のモデルと当てはめると、以下のようになります。

「注意欠如」→注意力の欠如

「多動性」→集中力の欠如

 

そして、ADHDの本質は注意力の欠如ではなく、集中力欠如。

一方のADDの本質こそ、注意力の欠如にあると私は考えます。

 

  • DSM-5によるADHDの類型化の見直し

ADHD

 ・多動優勢型ADHD

 ・不注意優勢型ADHD

 

ADD(現在、特定不能の広汎性発達障害に含まれる?)

  

次回はADHDとADDの不注意症状が引き起こす他の問題について、書いていこうと思います。